思考過程で使われる記憶:作業記憶
前頭葉損傷の患者さんでは「宣言記憶」も「手続き記憶」も比較的良く保たれているのですが、作業記憶と呼ばれるタイプの記憶が障害されます。
作業記憶(ワーキング・メモリー)という概念を最初に提唱したバドレーBaddeley (1986)によれば、作業記憶とは「理解、学習、推論など認知的課題の遂行中に情報を一時的に保持し操作するためのシステム」です。ちょっと分かりにくい言い回しですが、要するに、ものごとを考えるときに使う記憶ということです。記憶というと、憶えておくべき内容を記憶の引き出しに入れておいて、必要に応じて取り出すような単純なイメージを持ちがちです。一方、私達が考えるときは複数の内容を同時に心に留めておかないと、それらの関係を判断することはできません。このタイプの記憶は考えているあいだ頭の中に存在すれば良いので短期記憶の一種です。しかし、電話番号を憶えておくときのように単純ではありません。少し乱暴な比喩ですが、電卓についているメモリー機能は作業記憶に似ています。例えば、103+104=207としてメモリー・プラス(M+)ボタンを押し、523+437=960とし÷を押し、さらにメモリー・リード(MR、機種によってはRM)ボタンを押すと、960÷207を実行できます。この計算では103と104という2つの数字がまず短期記憶にあり、この2つの数値を操作した結果、207が導きだされます。207が得られれば、103と104は不要になりますが、207はこの計算が終わるまで憶えておく必要があります。つぎに532と437という2つの数字を短期記憶に留めておき、それを操作して960という値を導きます。960が得られれば523と437は不要です。つぎのステップは960と207を操作することです。4.637という数字がでれば、960と207の記憶は不要です。
作業記憶は前頭連合野で扱われる
図1は私たちの研究室でサルを使って作業記憶をテストしたときの課題です。この課題では、記憶期間が3つあります。最初に1番目の図形が呈示され、その後第1の記憶期間があります。つぎに2番目の図形が呈示され、その後第2の記憶期間があります。さらに赤または緑の色が呈示され、その後第3の記憶期間があります。最後に3つの図形が呈示され、赤のときは第1の図形、緑のときは第2の図形を選ぶと正解になります。この課題を行うときには、第1の記憶期間には、第1の図形を、第2の記憶期間には第1の図形と、第2の図形と、2つの図形の呈示順序を憶えておく必要があります。さらに色が出たときにこれらの記憶と色を照合して正しい図形を決める必要があります。第3に記憶期間は決めた図形を憶えている期間です。この課題を行っているとき、前頭連合野には、それぞれの記憶期間に活動する神経細胞があります。このような神経細胞活動の多くは、それぞれの記憶期間に憶えておく内容である図形やその呈示順序によって活動のレベルが変わります。また、記憶が必要なくなると活動が止まり、エラーでは活動が減少します。さらに色が呈示されたときには、思い出した図形に対応した神経細胞活動があらわれます。似たような活動は側頭連合野にも存在しますが、前頭連合野の活動の方が側頭葉よりも早くはじまり、活動のレベルも高くなります。従って、複雑な作業記憶の機能には前頭葉がより重要な役割を担っているとことが分かります。
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図1 サルの前頭連合野の働きを調べるために使った課題(連続プローブ再生課題、Serial Probe Reproduction task)の時間経過。画面中央の注視点をサルが見ると課題がスタートします。1.5秒後に図形1(C1)が0.5秒間呈示されます。1秒の記憶期間(D1)の後、図形2(C2)が0.5秒間呈示されます。その後、2番目の記憶期間(D2)が1秒間あって、赤または緑の色刺激が0.5秒間呈示されます。さらに1-1.5秒の記憶期間があり、最後に3つの図形が呈示されます。色刺激が赤のときは図形1に、緑のときは図形2に視線を移動すれば正答として報酬を与えます。この課題では、D1の期間はC1の記憶、D2の期間はC1とC2とその呈示順序の記憶、D3の期間は正答図形の記憶を必要とします。さらに、色刺激で正答図形の想起が必要です。(Inoue and Mikami, J. Neurophysiology 2006)
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ヒトを被験者としたテストでも、ウィスコンシン・カード・ソーティング課題(Wisconsin Card Sorting Test、図2)やロンドン塔課題(Tower of London Test,図3)などの作業記憶を必要とする課題を行っているときに前頭連合野の血流量が高まります。また、前頭連合野に損傷のある患者さんで作業記憶の課題の成績が悪くなります。例えば、ウィスコンシン・カード・ソーティング課題では自分の選択したカテゴリーとその結果が正解だったか否かを憶えておく必要があります。また、ロンドン塔課題を頭の中で考えながら解くときには、途中のステップ毎に起こる玉の位置を心に留めておく必要があります。そこで使われる記憶は作業記憶です。
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色、形、数がそれぞれ4種類ある128枚のカードを一枚ずつ被験者に渡し、刺激カード1-4のうちの1つの上に置かせる。置いたところで、その分類の当否を告げる。10回続けて正解すると分類の基準を色?>形?>数と変える。前頭連合野損傷患者は同じ誤りを繰り返す傾向にあり、分類の基準が変わっても追随しない。分類の基準が変わったとき、選択したカードと自分が選択した分類が正しかったkどうかを憶えていないと正しい判断ができない。このテストでは作業記憶が機能しないと課題を正しく遂行できない。前頭連合野の損傷した被験者では、作業記憶の障害とともに、一度選択した行動を繰り返す保続傾向が見れれるケースがある。(Milner, 1964より改変)
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図3 タワー・オブ・ロンドン・テスト(ロンドン塔課題)
玉を1回に1個移動させ、全部で5回の移動でゴールのようにする課題です。紙に描かずに頭の中で答えを考えてください。何分で出来たか時間を計ってみてください。
答えは一番下にあります。
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図4 タワー・オブ・ロンドン・テスト(ロンドン塔課題)の答え
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