1.記憶研究の4つのレベル
記憶の研究は主としてつぎの4つのレベルで研究が進められてきた。その1つは、記憶の分子メカニズムの研究である。分子レベルの研究には、アメフラシ、マウス、ラットなどの比較的単純な系を用いて、より深く問題を掘り下げる戦略をとるのが一般的である。こうした戦略をとる理由は、記憶の基礎となる分子メカニズムが、比較的下等な動物であれ、高等な動物であれ基本的に同じであろうという仮定に基づいている。
記憶研究の第2のレベルは、細胞レベルの研究である。脳内の情報処理機能を担う素子は神経細胞(ニューロン)である。神経細胞同士の信号の伝達は、電気信号(活動電位)によって行われる。活動電位が出なければ他の神経細胞に情報を伝達することができない。活動電位が出てはじめて信号は神経線維を伝わり次の神経細胞へと伝達される。脳内の記憶情報の処理も神経細胞の活動電位によって担われている。一方、活動電位を出すか出さないかは、シナプスに発生する信号の合成の結果が活動電位発生の閾値に達するかどうかにかかっている。以下の2つのアプローチが行われている。ひとつは、シナプス・レベルの電位変化発生をとらえようとする試みであり、もうひとつは活動電位そのものの解析により、記憶の脳内機構を解明しようとする試みである。
記憶研究の第3のレベルは、脳のマクロの領域レベルの研究である。脳の機能局在の考え方が定着するにつれ、記憶機能も特定の部位に局在すると考えられるようになった。1950ー70年代には、サルの脳の一部を破壊して記憶機能の責任部位を探す試みが盛んに行われた。このレベルの研究では、ヒトの脳損傷の症例の研究も多い。また、脳機能画像化の技術的進歩にともない、正常なヒト被験者を対象とした脳機能マッピングの研究も盛んに行われている。
記憶研究の第4のレベルは、個体のレベルで行動を見る研究である。
2.破壊実験による記憶機能の責任部位同定
動物を用いた記憶研究手法の一つは、脳の一部を破壊して一時的あるいは永続的な機能喪失を引き起こし、脱落症状を調べる方法である。脳の一部を壊し、記憶の機能に障害が起これば、その部位は記憶機能を担っているだろうということである。脳の一部を破壊する方法としては、外科的切除、冷却、電気刺激、薬物注入などが用いられてきた。
外科的切除は、広い領域を破壊できる利点を持つ一方で、破壊領域の境界を厳密に操作できない、外科的手術後に回復期に機能代償が起きる、繰り返しテストできないなどの欠点がある。冷却は繰り返しテストできる反面、冷却の及ぶ範囲を厳密に決められない欠点がある。電気刺激は、ONとOFFの時間的タイミングを正確にコントロールでき、繰り返しテストできる反面、広い領域を刺激できない欠点がある。薬物注入は、薬物により可逆的、非可逆的効果を選択でき、伝達物質との関係で機能を同定できる利点があるが、広い範囲の破壊には不向きである。
3.記憶を電気活動で見る
すでに、述べたように、脳内の情報処理機能を担う素子である神経細胞同士の信号の伝達は、活動電位によって行われる。活動電位が出てはじめて信号は神経線維を伝わり次の神経細胞へと伝達される。従って、脳内の記憶情報の処理も神経細胞の活動電位によって担われているはずである。例えば、「Aさんの顔の記憶」には、Aさんの顔物質があるのではなく、Aさんの顔の認知と記憶を担う神経回路があり、その神経回路を構成する神経細胞のうちどの細胞がどのタイミングで活動電位を発生するか、その時間的・空間的分布が、「Aさんの顔」の認知や記憶を担っている。記憶を電気活動で見る手法によって、記憶研究を行うのは、このような考えに基づいている。記憶を担う分子機構は、それぞれの細胞レベルで伝達の効率を変化させ、神経回路の可塑的な変化を引き起こす重要な契機にはなるが、記憶の内容そのものを担うことはなく、記憶の内容は神経細胞の活動の時間的・空間的分布によって決まるであろうという考えである。このような立場からこれまで行われてきた大部分の研究は、記憶課題を遂行中の脳内の1個1個の神経細胞の活動を、行動との関係で解析した研究である。どのような記憶課題を選択し、脳内のどこの神経細胞活動を記録して解析するかは、破壊実験の結果を参考にするのが一般的である。
京都大学の久保田競と二木宏明(1971)、Fusterら(1973)および二木(1974)、久保田ら(1974)は、遅延課題遂行中のサルの前頭連合野から、左右の空間記憶の保持に関連すると思われる神経細胞活動を記録した。図2はその例である。こうした神経細胞は、短期記憶の時期に活動電位を出し続けており、しかも、その活動レベルが憶えておくべき内容(この場合は、左右の場所)によって違っていた。
類似の神経細胞活動は、その後、頭頂連合野、側頭連合野、海馬、扁桃核、尾状核などでも記録され、それぞれ、記憶を担う神経細胞の候補であると解釈された。図3は側頭葉で記録した記憶期間に活動する神経細胞活動である。この研究の基礎になった課題は図1の遅延見本合わせ課題である。
これらの課題で問題にされている記憶は、数秒の試行の間にのみ必要とする短期の記憶である。電話をかけるときに電話番号を手帳で確認し、電話をかける間の短期間憶えておいて、かけ終わったら忘れてしまうときの記憶と同じである。紹介した研究は、短期間の記憶は神経細胞が活動を続けることによって保持されているだろうという仮説に基づいている。そこで、前頭連合野で記録した神経細胞が記憶を担っていると考えた根拠は、?記憶の必要な期間活動が続くこと、?記憶すべき内容によって活動のレベルが有意に変わること、?その領域の破壊により、テストした記憶課題の遂行が障害されること、である。
(2)記憶期間の持続的活動は記憶が不要になると止まる。
同様の神経細胞活動を記録し、さらに、行動との関係を見たのが図3である。この図はサルの試行毎の課題遂行と神経細胞活動との関係を示しており、記憶期間の持続的活動は、記憶が不要となるとき消失する。また、記憶期間を延長すると、必要な期間活動が続く。
(3)知覚から記憶への情報の受け渡し、
図3で見るように、側頭連合野や前頭連合野には、視覚刺激の提示期間と記憶期間の両方に活動する細胞があり、多くの場合、両者の刺激選択性は似通っている。このような細胞は視覚刺激の識別から記憶への情報の受け渡しに関与できると考えられる。同様に記憶期間に活動し、さらに反応を指示する刺激(ゴー刺激)でも活動する細胞もあり、このような神経細胞は記憶から反応への情報の受け渡しをしていると考えられる。
(4)記憶からの読み出し
記憶期間には活動せず、記憶の読み出しの時期にのみ読み出される記憶内容に選択性を示す神経細胞活動も記録されている。(Inoue, Mikami, 日本神経科学会、2003)
(5)長期記憶を反映した神経細胞活動。
長期の記憶は、その期間電気活動が続くと考えるのは無理がある。そこで、長期記憶が保持されるのは、多数の神経細胞の構成する神経回路の特性が変化し、その変化が残されるからであると考えるのが一般的である。この考えに従えば、記憶の読み出しは、その回路に埋め込まれていた多数の神経細胞の活動パターンが再現することである。従って、長期の記憶を獲得した結果、神経細胞の活動パターンが記憶内容に即して変化すれば、長期記憶を電気活動で見たことになる。このような視点から研究は、東大の宮下研究室で行われ、それを示唆する結果が得られている。
(6)今後の課題
記憶を電気活動で見る試みがスタートしてから30年余りが経過し、1個1個の神経細胞活動を解析することによって、記憶を担うであろう脳領域の神経細胞活動の特徴や、関連する脳領域間の情報の流れ、記憶の読み出しや記憶に基づく判断などに寄与する神経細胞活動の特徴が明らかになってきた。しかし、情報処理装置としての脳はとてつもなく複雑であり、記憶を担う神経回路の特性の全貌を解明するには至っていない。今後は、現在進行中の取り組みの継続とともに、複数の神経細胞の同時記録、局所の神経回路の細胞タイプや他の脳領域との結合関係の判定と関連付けた神経細胞活動の解析など、多数の神経回路が働く記憶システムの解明のための取り組みへの挑戦が必要と思われる。
[参考文献]
Inoue, M. and Mikami, A. (2003) Prefrontal cortex contributes selection of an object from memorized objects. Neurosci. Res. Supp. 1, S18.
Mikami, A. (1995) Visual neurons with higher selectivity can retain memory in the monkey temporal cortex. Neurosci. Letters, 192: 157-160.
Nakamura, K., Mikami, A. and Kubota, K. (1992) The activity of single neurons in the monkey amygdala during performance of a visual memory task. J. Neurophysiol. 67: 1447-1463.