逆転メガネの話、脳の驚くべき適応力


 ヒトやサルの目はカメラに似ていて、レンズ(水晶体)を通過した光は、上下にも左右にも逆転した像を網膜に結びます。外の世界は上下逆さまに写されたまま、もとに戻されることはなく、脳に行っても脳の上側(背側)は下の視野に、脳の下側(腹側)は上の視野に対応しています。網膜に写った像は左右にも逆転していますが、左右の視野の問題は、私たちが2つの目を持っているのでもう少し複雑です。

 ヒトやサルは、左目と右目の両方を使ってものを見ています。言い換えると、左目も右目も左視野、右視野の両方を見ていることになります。一方、大脳皮質は左右にほぼ対象な形をしており、その左側は右側の世界を担当し、右側は左側の世界を担当しています。このように、脳が外の世界の反対側と対応していることを対側支配と呼んでいます。この原則に従って、視覚情報も左視野の情報は右の大脳皮質(右半球)で、右視野の情報は左の大脳皮質(左半球)で処理されます。目のレベルでは左目も右目も両方の視野を見ていたので、目から途中の中継核である外側膝状体(がいそくしつじょうたい)へ行く手前で、左目の左の視野は右脳へ、右目の右側の視野は左脳へ行くように目からの情報の半分が交差して反対側の脳に向かいます。その結果、外側膝状体や大脳皮質の視覚野では、それぞれ反対側の視野の情報を扱うことになります。このように網膜で逆転した像の左右の関係は脳についっても逆転していることになります。

 この逆転した像を目の前にプリズムをおくことによってもう一度逆転させ、結果的に脳には正立した像を送るようにする実験が行なわれています。この実験を始めて行ったのは、アメリカの知覚心理学者のG.M.ストラットンです。彼は、1890年代に二度の渡って、プリズムの入ったメガネをかける実験をおこないました。彼の用いたメガネは、片目用のもので、上下左右が逆転するものでした。もう一方の目は覆っていました。彼は一日中このメガネをかけ続け、そのまま数日を過ごし、そのときの経験を克明に記録しました。メガネをかけた直後は逆転していた視覚世界は、やがて正立してしまったのです。

 実際に自分自身で逆転メガネを経験した下條信輔カリフォルニア工科大学教授の話では、逆転メガネをかけた直後の状況は、予想以上にひどいそうです。頭の動きに伴って、視野が上下左右に激しく揺れ動き、重症の船酔に似た症状になり、二時間以内にへたり込み、食べたものを吐いてしまうそうです。私たちが正常な状態で頭を動かすとき、視野は頭を動かす方向と逆方向に動いています。しかし、自分自身で頭を動かす方向を知っているので、頭を動かしたとき、回りの世界が逆方向に動いたなどと感じることはありません。自分の頭が動いているという情報が、視覚空間の認知のシステムに伝えられ、視野の動きを打ち消しているからです。逆転メガネをかけると、視野は頭を動きと同じ方向に、頭の動きのスピードと同じスピードで動きます。さらに、私たちの脳は、自分の頭がある方向に動いたから、視野は逆方向に頭と同じスピードで動くに違いないと判断します。そこで、その動きを打ち消すように、視野を順方向へ動かしてしまいます。その結果として、視野は、頭を動かしたと同じ方向へ、頭の動きの二倍のスピードで動くことになします。

 上下逆転メガネをかけたときの異常感覚は、見える自分の体と、感じられる自分の体との分離であるといいいます。逆転メガネをかけて下を向くと、自分の姿が向こう側に、こちらを向いて見えています。この状態で立小便をすると、小便が自分に向かって飛んでくる印象を受け、思わずとびのいてしまうそうです。しかし、上下逆転メガネをかけて数日経過すると、見える自分の体の位置と、感じられる自分の体の位置とが、いつのまにか一致するようになします。それをきっかけに、「正立」の印象が戻ってきます。「正立」の印象の回復には、自発的に行動し、外の世界に向かって積極的に働きかけることが重要であると考えられています。1-2週間もすると、逆転メガネをかけたまま自転車に乗るようなこともできるようになます。

 逆転メガネの世界を何日間も経験した後、メガネをはずすと、ふたたび激しい視野の動揺が起こりますが、この動揺は数時間で改善します。逆転メガネをはずした直後から上下左右の方向性の混乱はほとんどなく、「視野が再び倒立する」ことはないようです。

 先に説明した目からの情報の流れは解剖学的に決まっており、大人の脳で上下左右をつなぎ変えることは不可能です。従って、逆転メガネによる視野の逆転への適応は、視覚野のマップ自身が上下左右に逆転したのではなく、視野空間の解釈のシステムが新しい視覚像に柔軟にしかも1-2週間という比較的短時間に対処したものと考えらます。このように、成人でさえ、視覚空間の世界を経験によって大きく変更する力を持っているということは驚くべきことです。 

 この逆転メガネの適応による脳の変化を、豊橋技術科学大学にいた杉田陽一助教授(現在は、産業技術総合研究所、脳神経情報研究部門、認知行動科学研究グループリーダー)が調べています。杉田博士はサルに逆転メガネをかけて訓練し、逆転メガネの環境に順応したサルの第一次視覚野(V1)から細胞活動を記録しました。視覚野の細胞は左脳では右視野から右脳では左視野から情報を受け取りますので、視覚野の細胞は記録する半球と反対側に視覚刺激を見せたときに活動し、同側の視野に視覚刺激を見せたときには活動しないはずです。ところが逆転メガネの世界に適応したサルの視覚野の細胞の一部は反対側だけでなく同側の視覚野に視覚刺激を見せたときにも反応するように変わっていたのです。視覚野は網膜上の位置に対応したきちんとしたマップがあり、このマップは変更できないので、同側への反応は、視野の両側から情報を受け取る連合野から視覚野へもどってくる信号によって実現していると考えられますが、その証拠を示す実験はまだ行われていません。

図1 左の図はサルが左右逆転メガネをかけてまもなく、サルがまだ逆転メガネに適応できていないときのリーチング課題遂行のおける手の軌跡。■がサルの頭の位置、水平線はディスプレーで、その上の小さな◆が目標位置。目標とは逆の方向に手をのばし、画面にたどりついてから目標とのずれを修正している。右の図は54日後、逆転メガネに適応した後の軌跡。まっすぐに目標に向かって手をのばしている。(Sugita, Y., Global plasticity in adult visual cortex following reversal of visual input. Nature, 380, 523-526, 1996 より改変)

図2、左右逆転メガネに適応したサルの左の第一次視覚野の複数の細胞の受容野の位置。細胞の一部(赤で描かれた受容野を持つ細胞)は左視野の視覚刺激でも活動した。しかもその左側の受容野の位置は右視野の受容野の位置とほぼ対照的な位置にあった。(Sugita, Y., Global plasticity in adult visual cortex following reversal of visual input. Nature, 380, 523-526, 1996 より改変)

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(このページに関する連絡先:三上章允)