意識の中枢はあるか?


 19世紀の後半から、脳の機能局在(脳は場所によって機能が異なる)の見方が主流となってきた。この考え方を単純に当てはめると脳はxx中枢の集合であり、従って、意識の中枢もあると考えられがちである。しかし、脳はそれぞれの部品がばらばらに単独で働くほど単純ではない。意識についても、個別の意識を想定するほうが正しいかもしれない。
 参考となる第1の例は、NHKのテレビでも放映された症例である。 Zihlによってはじめて報告されたこの患者さんは、第5次視覚野(V5、MT野)に相当する部分の障害で動きの意識のみが消失していた。物の知覚、色、奥行きの視覚能力が正常に保たれていたにもかかわらず、動きが見えないため日常生活でもいろいろな不都合が生じていた。例えば、コップにミルクを注ぐときにミルクの面の動きが見えないため、現在のスピードでミルクの面が上昇するといつ頃いっぱいになるかが判断できず、結局ミルクがテーブルにあふれ始めるまで注ぐのを止めるタイミングが分からなかった。また、遠くに車が見えたので道路を渡ろうとしたつぎの瞬間にすぐ近くに車があって立ちすくんでしまうこともあった。
 参考となる第2の例は、上の例とは逆に、完全な盲目なのに動きのみ「見える」症例である。 第一次視覚野(V1)の障害で目の前のいろいろな場所に光点を出してテストすると、完全に盲目であるにもかかわらず、動きだけが「見える」。これは、blind sightと呼ばれる症状である。このようなケースは、第二次世界大戦の際の頭部損傷の患者さんの症例としてすでに報告があり、最近も類似の症例の報告がある。そうした患者さんに、見えない視野のどこかに光刺激(特に動く光刺激)が表示されたかどうかを答えさせると、正答率が良く、「無意識」の内に見えていると判断できる。この場合、患者さんは見えているという意識はないが、動きの視覚の情報処理はできていることになる。これらの事実は、視覚像の意識、視覚的動きの意識、色の意識というように、意識は個別的に大脳皮質のいろいろな場所に分散して存在することを示している。
 これらの例は意識が分散していると考えを支持する。もちろん、意識の問題は、意識をどう定義するかにもよってその結論も変わってくる。たとえば、意識を、自己を周囲から区別し自分自身として「意識する」ことと定義すれば、当然、例えば動きの意識、色の意識などの個別の意識に留まっていたのでは具合が悪い。個別の意識が脳内のどこかの場所で統合されると考えれ方が分かりやすいかもしれない。しかし、特定の場所で統合しなくても、個別の意識が大脳皮質のあちこちに存在しているという状態そのものが意識であり、その状態から自己意識が生ずると考えてもよいであろう。分散する意識の見方を徹底すると、このように考えるのが合理的と思われる。
 意識のレベルを保つために、脳全体の覚醒レベルを維持するシステムがあったとしても、そうしたシステムを意識の中枢と呼ぶのはふさわしくないであろう。それは、意識そのものではないのだから。また、事故に伴う記憶喪失で自分が誰であるかわからなくなるときも、誰かわからない自己の意識は存在している。自己と他との境界の不明瞭になる分裂病も、結局自己意識が消失するわけでなく、自己意識が存在しつつその境界線にズレが生じているだけである。脳の損傷で人格の変化が起こる場合でも、自己の意識が消失するわけではなく、患者さんにはには「異常」な自己の意識が存在している。従って、他のすべての脳機能が保たれながら、自己意識のみが消失することはなく、従って自己意識の中枢もないと考える方が正しいかもしれない。

(文責:三上、1997年執筆)

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(このページに関する連絡先:三上章允)