脳死の判定基準は適切か?


脳死を理念として認め、脳の「死」の定義が決まったとしも、臨床の現場で、脳の「死」をどのように判定するかという問題が解決しなければなりません。一九八五年一二月、厚生省の研究班によってまとめられた「厚生省科学研究費・特別研究事業『脳死に関する研究班』脳死判定基準」というものがあります。この判定基準は、厚生省基準あるいは研究班の班長の名前(竹内一夫杏林大学医学部教授)をとって竹内基準と呼ばれています。この研究班は、以下の6つの基準をあげています。
 (1)深昏睡、
 (2)自発呼吸の消失、
 (3)瞳孔の散大、
 (4)脳幹反射の消失、
 (5)平坦脳波、
 (6)時間経過です。
 まず、深い昏睡とは、意識のない状態であり、顔に痛み刺激を与えても反応しない状態と書かれています。つぎにあげられている、人工呼吸なしに自ら呼吸する機能の消失、瞳孔の拡大、脳幹反射(光を見ると瞳孔の小さくなる対光反射など7つの反射で、これらの反射は脳幹が正常にはたらいていないと起こらないとされている)は、いずれも脳幹の機能のテストです。脳波は頭の皮膚の上から記録した脳内の電気活動で、その平坦化は終脳の電気活動の弱まっていることを示しています。最後の時間経過は、診断結果に間違いのないことを6時間後の再確認するものです。この基準は、特殊な装置を使わずに、小さな病院にもあるような簡単な装置を使った測定と診察によって脳死を判定することを念頭に作られた基準です。
 ここで、問題になるのは、脳幹の機能消失についてはいくつかのテストが行われていますが、終脳の機能テストについては脳波のみであるということです。また、脳幹の機能のなかでも、間脳や中脳の機能はテストされていませんし、小脳の機能もテストされていません。さらに、脳幹反射の消失は、必ずしも脳幹そのものの異常を示していません。脳幹反射では、光や触覚や痛覚を伝える感覚経路、感覚経路から運動経路への伝達を調整する脳幹部分、反応や運動を引き起こす経路のすべてを必要としているからです。従って脳幹反射の消失は、たとえ脳幹が正常に働いていても、感覚や運動など途中の経路の障害のみによっても引き起こされる訳です。一方で、個人の知的な機能は終脳に、動物的な機能は脳幹にあるとう考えに立てば、終脳こそ個人の存立にとってもっとも重要な場所であると見ることができます。もちろん、私たちの知的な機能を正常にはたらかせるためには、脳幹部分にある生命維持の機能との関わり、とくに間脳、中脳のはたらきとのバランスが不可欠です。しかし、全ての脳の死としての脳死、個人の存立が意味を持たなくなる脳死状態の判定には、終脳の機能停止の判定がより慎重に扱われるべきでしょう。終脳の機能を意識が消失した状態で簡便に調べることはなかなか困難です。終脳の機能の検査として欧米で採用されている検査のひとつは、誘発脳波の記録です。誘発脳波は、感覚刺激を何度も繰り返し、引き起こされる脳波の変化を加算したものです。加算することによって、感覚刺激のあとの引き起こされたわずかな脳の電気活動をひろいだすことができます。たとえば、聴覚刺激の後の脳波を一千回以上加算すると刺激の開始から十ミリ秒(一ミリ秒は一秒の千分の一)以内の誘発脳波を観察すると、脳幹の聴覚中枢の反応を見ることができます。これは、聴性脳幹誘発脳波と呼ばれ、脳幹の機能検査には有効です。同様の誘発脳波を記録しながら数十ミリ秒から数百ミリ秒の波形を観察すれば、聴覚に関連した終脳の活動を推定できます。脳血流の測定も比較的簡便で有効な方法です。脳の細胞も、体の中の他の細胞と同様に、血流によって酸素や栄要素の供給を受けています。とくに、終脳の神経細胞は酸素不足に敏感で、酸素不足が続くとまっさきに死滅します。脳の血流は、X線撮影で陰をつくる物質を血液中に入れ頭のX線写真を測定することによって検査することができます。これらの他、現在はそれほど普及していませんが将来有望かもしれない検査方法として、脳の血流を赤外線反射を用いて測定する方向、磁気共鳴イメージング(MRI)によって脳機能を見る方法などがあります。
 脳死の問題が重要視されているもう一つの側面は臓器移植の問題です。臓器移植によって助けられるかもしれない命があるとき、臓器移植の側面から見ると、判定基準を早急に作ること、できるだけ速やかに判定できるような基準とすること、特別な装置がなくても判定できるようにすることが必要です。しかし、一方で、死の判定は誤診の許されない問題です。現時点での医学水準に照らして、生きている人間を死んでいると誤診しないよう厚生省基準の見直しが必要と思われる。さらに、脳死の定義と判定基準が確立した上で、もう一つのハードルがあります。社会的な理解、社会的な受け入れ環境の整備の問題です。この点でも日本はまだ遅れているように思われます。脳死後の臓器提供の問題は最終的には、各個人あるいは遺族の問題でしょうが、各個人の適切な判断が可能になるよう脳死問題についての啓蒙活動も必要でしょう。一九九二年一月、「脳死及び臓器移植に関する重要事項について(答申)」(脳死臨調答申)が、「臨時脳死及び臓器移植調査会」から出されました。約二年間の討議の後の答申でした。この答申では残念ながら、脳死の判定については先の竹内基準を再認する結果となりました。不十分なままの判定基準での出発がかえって脳死への理解を遅らせ、臓器移植によって助けられるかもしれない命を奪うことにならないよう、運用面の基準強化を望みたいものです。

(文責:三上、1995年執筆)

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(このページに関する連絡先:三上章允)