「モジュール群による分散表現」仮説

{おばあさん細胞」は存在するか?


 「おばあさん細胞」とは、「おばあさん」を認識する細胞という意味です。「おばあさん」を認識する細胞、「電話」を認識する細胞というように、脳の中には世の中の認識内容に対応した神経細胞があり、その細胞の活動によって認識が行われるという考え方です。「おばあさん細胞」仮説はもう少し一般的な表現をすれば「認識細胞」仮説と呼ぶこともできます。これに反対する意見は「細胞群」仮説です。ひとつひとつの細胞は「認識」内容との明確な対応を持たず、あるいはある程度の対応を持っていたとしても1個の細胞ではなく多数の細胞の集団の活動によって「認識」が成立するという考え方です。


「おばあさん」細胞は存在するか? 脳の情報表現をめぐって--「モジュール群による分散表現」仮説--(重点研究「高次脳」ニュースレター、No. 7、1991年執筆)

 現在のところ、われわれは、「認識細胞」仮説が正しいとも、「細胞群」仮説が正しいとも結論する決定的な証拠を持たない。また、決定的な証拠を引き出すような適切な研究手段も持ち合わせていない。ここで、私が「認識細胞」仮説と呼んでいるのは、機能局在を1個の細胞レベルまで押し進めようとする立場である。これは、1つ1つの認識対象に対応した細胞が存在するという立場である。一方、「細胞群」仮説は、情報表現が1個の細胞のレベルまで必ずしも局在せず、複数の選択性の不完全な細胞の集合によって認識対象が表現されているとする立場である。現在のところ十分な証拠がなく、また、近い将来決定的な証拠があらわれるわけでもないとすれば、どちらでも良いとする考え方もあるかもしれない。しかし、私は、どちらを重視するかによって、今後の研究戦略は変わる可能性があり、この問題を整理しておくことは、研究上の実践的意義があると考えている。
 まず、脳内の情報表現に関して私が持ち合わせているデータは次のようなものである。 (1)下部側頭連合野や扁桃核には、顔、手、固形飼料、特定の人、笑顔、威嚇の表情など、特定のカテゴリーの映像の呈示にのみ対応して活動増加を示すと思われる細胞が小数存在する。これらの細胞は、「認識細胞」の概念に合う。
(2)下部側頭連合野や扁桃核から記録される細胞の大多数は、好みの映像(自発活動に比べて統計的に有意な活動変化を示す映像)と好まない映像(活動レベルが自発活動と区別のつかない映像)を持ち合わせているが、これらの細胞では、好みの映像の間には共通性を見つけにくく、「認識細胞」仮説の立場から見るとその選択性は「不完全」である。この不完全な選択性は、個々の映像に対する活動を自発活動と比較したときばかりでなく、個々の映像に対する活動変化を相互に比較した場合もやはり「不完全」である。
(3)記憶期に特定の画像刺激の記憶に対応して活動する細胞の大部分は、その画像刺激の呈示期にも活動する。
(4)類似の特徴を持った細胞は、記録電極を大脳皮質表面に垂直に近い角度で進めるとき、かたまって記録される傾向にある。電極の位置を大脳皮質表面に対して0.5から1ミリ程度ずらすと、しばしば全く違う性質を持った細胞が記録される。さらに数ミリ離れたところにまた類似の特徴を持った細胞があったりする。
 これらのデータから考える私の「脳内の情報表現」のイメージは、つぎのようなものである。
(1)脳内で表現されている情報は、複数(おそらくはかなり多数)の細胞の活動電位の時間的、空間的パターンによって決まる。
(2)ある情報表現に関与する細胞は、多くの場合、他のいくつかの情報表現にも関与する。
(3)細胞の活動と刺激との間には、個々の細胞レベルで、不完全ながらもそれなりに対応関係をみつけることができる。従って、個々の細胞レベルでは全く意味不明な活動電位の時間的系列が多数集まって情報をコードするというほどのことはおそらくない。
(4)それぞれの細胞における刺激選択性の程度はさまざまである。顔、表情、餌などヒトや動物の日常生活で重要な意味のある刺激に対する選択性はより先鋭で、ときには「完全」なように見えることがある。また、重要な情報では、リクルートされる細胞数も多い。
(5)情報表現は、少なくとも連合野においては、1個の細胞レベルに限局しないだけでなく、おそらく「コラム」・レベルでも限局していない。ここで「コラム」と呼ぶのは、大脳皮質表面に垂直方向に広がる約500ミクロン四方の角柱である。「コラム」という名称やそのサイズについては、連合野においてはまだ論議もあると思うが、数百ミクロンのオーダーで大脳皮質表面に垂直に広がるという意味で仮に「コラム」と呼んでおくことにする。活性「コラム」はとびとびに、モザイク的に分布する。
(6)時間パターンによる情報表現の可能性が考慮されるべきである。刻々と変化する刺激の時間経過を追うシステムと、静的なパターンを認識するシステムはある程度分離しており、静的なパターンの認知システムでは、細胞活動の時間パターンに情報がコードされている可能性がある。情報の時間的変化も、例えば視覚刺激の等速度運動や、振り子運動など、比較的単純な運動パターン、その動きの方向、スピード、将来の位置の予測などは、刻々と時間経過を追わなくても認識可能であり、時間パターンとしてのコードの可能性がある。
(7)細胞活動の時間的・空間的パターンは、あるパターンから次のパターンへと変化する動的な過程であり、空間的活動パターンのみが完全に独立的に静的に存在しない。
(8)このような細胞活動の時間的・空間的パターンへの引き込みの過程が認知であり、その活動状態の短時間維持される過程が短期記憶、そのような活動状態への引き込みを起こしやすいシナプス結合状態の分布の残されたものが長期記憶である。この見地にたてば、識別、認知、短期記憶、長期記憶は、それぞれ脳の別の場所で扱われていると考えるより、むしろ同じ場所で扱われていると考えられる。機能の局在は処理される情報のモダリティーやその側面によっている。
(9)脳の働きにゆとりがあり、その可能性を100%引き出していない。現代の人類がヒトの脳をその限界まで使いきっているとは考え難い。しかし、このことは、例えば脳の神経細胞の10%しか働いていないという意味ではない。何万年前の古代人類も、現代人も、未来人も、おそらく脳の100%近いの神経細胞を働かせていた、あるいは、働かせているに違いない。ここ数万年の人類の脳の進化は、主として類似の神経回路を使いながらより高度な情報処理を実現してきた。
 以上のような情報表現を私は仮に「モジュール群による分散表現」と呼ぶことにする。
(情報処理の階層性のみでなく、存在様式の階層性にも注目すべきであるとする考えは、講談社現代新書「脳はどこまでわかったか」でも述べたので、ここでは繰り返さない。)
 このように考える理由は、比較的単純であり、すでに言い古されたものであるが簡単にまとめておく。
(1)細胞数の不足:「認識細胞」仮説が正しいとした場合、例えば、視覚パターンを「認識」できる「認識細胞」は下部側頭連合野にあると考えられる。ヒトの側頭連合野の神経細胞の数は、おおよそ25億と推定されている。このうち3分の1が聴覚に、3分の2が視覚に関係しているとすると約16億個が視覚に関与できる。下部側頭連合野で「認識細胞」の概念に合いそうな細胞が1%以下である。従って、仮に1600万個が「認識細胞」で、一つの認識対象に100個づつ「認識細胞」があるとすると、16万を認識可能という計算になる。この計算はきわめて大ざっぱではあるが、かなり多めの見積りだと思う。
(2)情報処理装置としての脳の能率:限られた素子数で多くの情報を表現しようとする場合、複数の細胞活動の組み合わせで情報表現する方が能率的である。また、個々の情報処理にさいしてほんの小数の細胞活動だけが意味を持ち、その他の大多数の細胞の活動が無意味であるとすると情報処理装置としてはずいぶん無駄の多いシステムとなる。
(3)破壊への強さ:多数の細胞に情報が分散している方が障害には強く、少々の細胞の死滅や破壊によって情報が失われることはない。また、重要な情報ほど、多数の細胞活動がリクルートされているので、破壊に強い。

(文責:三上、重点研究「高次脳」ニュースレターNo.7(1991)より転写)



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(このページに関する連絡先:三上章允)