青信号は緑色?

 京都大学名誉教授で平成9年まで国文学研究資料館館長を務めていた竹本氏(注1)によれば「古代日本語はアカ、シロ、アオ、クロの4色しか明確に抽象できていなかった」。氏によれば、「ミドリ」ということばは万葉集で2例、古今集で4例のみであり、いずれも新緑をあらわす表現である。従って、「ミドリ」は純粋な色の概念ではない。例えば万葉集の例は、「浅緑そめかけたりと見るまでに貼るの柳はもえにけるかも」(巻十、一八七四)、古今集の例は「常磐なる松の緑も春くれば今ひとしほの色まさりけり」(巻一、春歌上)である。同様に、「ムラサキ」「クレナイ」などの表現も具体的植物を表しており抽象的な色概念ではない。「キ」も色表現として使われはじめたのは源氏の頃からであり、その頃でもシロやアオが形容詞としての用法を持っていたのにキは形容詞表現を持っていなかった。例として、「白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり」(源氏・繪合)という表現をあげている。  竹本氏のこの見解に従えば、むかしの日本人は光のスペクトルの色としては赤と青だけしか区別していなかったことになる。このときのなごりは現代の日本人の色表現にもあらわれている。草は青々と茂り、交通信号は緑色でも青信号である。私の10年来の友人で、インドネシアのマドラス島で育ったファラジャラさんと色表現について話したことがある。彼によるとマドラス島でも青と緑を区別しないそうである。現在ジャワ島で暮らすファラジャラさんは、ジャワ島に移ってきた頃、青と緑を区別していないので、「色盲」であるとばかにされたそうである。ヨーロッパ、アメリカでは、交通信号の色の表現は赤と緑であることを考えると、青と緑を区別しない色分類の共通のルーツがアジアのどこかにあるのかもしれない。

 われわれは具体的なものからその特徴を集め抽象的な概念をつくることができる。例えば個別のリンゴを見てそのリンゴの様々な特徴が知覚できるだけでなく、個別のリンゴの特徴からリンゴ一般の特徴を無意識のうちに作り上げる。このリンゴの概念は、個別のリンゴを見るたびに微調整されていく。例えば、黄緑色のリンゴを見ると多少修正されたりもする。ついでに言えば、黄緑色のリンゴも「アオリンゴ」である。丸くて赤味を帯びていてもミカンを見ればリンゴ以外の別のものであると思う。概念とは個別から抽象されたものである。この抽象のレベルには様々あり、リンゴもミカンも果物という概念でくくられ、果物も松も植物という概念にまとめられる。色の概念はこの抽象度のレベルが高く、逆に言えば、具体的なものから離れ高度に抽象化され概念として成立していなければ、色概念と言いがたい。これが佐竹氏の見解である。もっともな主張であり、私も賛成である。この意味で、色概念として成立しているということと、色を区別できるということとは別である。

(2000年、「五感を遊ぶ」(メトロポリタン出版)に執筆した原稿を一部改編)


注1] 佐竹昭廣:京都大学文学部助教授、同教授、成城大学教授、国文学研究資料館館長などを歴任、2008年7月1日80歳で死去。主な著書に『下剋上の文学』『民話の思想』『酒呑童子異聞』『萬葉集抜書』『古語雑談』『絵入本朝二十不孝』『萬葉集再読』『閑居と乱世』などがある。

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